評価を交えず観察することは、人間の知性の最高のかたち
~ NVC人と人との関係に命を吹き込む法より ~
私たちは評価をしながら自分や他者を見つめています。その人の行動をあるがまま見つめるということは、どういうわけかとても難しいです。
例えば「Aさんはいつも誰かの後ろについて行動していて、自分から率先して何かをすることができない」という発言があったとします。これは事実をそのまま伝えていません。「いつも~」というのは評価が入っています。Aさんの行動の一部を切り取って、あたかもそれが全ての場面に当てはまる印象を与えてしまいます。これを言われたAさんが、やる気を失うのは時間の問題です。
別の例です。チームリーダーがメンバーの作成した文書に対し「これは独りよがりの文章ですね。誰も読まないでしょう」「やる気の無さがひしひしと感じられます」というフィードバックコメントを返しました。このコメントは全てリーダーの「評価」で、何一つ事実を伝えていません。事実を伝えるとしたら「この文章は〇〇というポイントが入っていますが、一方で△△が抜けています」「□□を入れると根拠がしっかりします」だけで良いのです。
最後の例です。上司と部下の面談の場で、部下が上司から批判的な質問を繰り返しさされたので言いました。「私は、あなたに批判され攻撃されているように感じます」すると上司は「攻撃なんかしてない。そういうことを言う君の方こそ人としてどうかしてる」と返したので、その場の雰囲気は悪くなりました。この時、部下の発言の「~と感じます」はその部下の評価です。また上司の発言の「人としてどうかしてるんじゃないか」も評価です。お互いに心を開いて会話をしていれば、部下は「私は今、この件であなたと理解しあえずに残念な気持ちです」と言えたでしょう。上司も「理解しあえていないとか残念な気持ちというのは、具体的にはどういうことですか」と穏やかに会話をつなぐことができたかもしれません。
勢いで言ってしまった言葉が相手を傷つけてしまうということは、誰しも覚えがあるのではないでしょうか。誰かを傷つける発言は一度口から飛び出してしまったら二度と取り戻せません。謝罪したところで帳消しにもできません。
そういう残念な状況を避けるためにも、私たちは自分のニーズを言葉にすることに意識を集中した方が良いのではないかと思います。そのためにも、まずは観察と評価(感想)を区別して表現するところから始めていきましょう。